Pカップの報酬がしょっぱい
とても恐ろしい集団心理である
「報酬がしょっぱすぎるぞォォーー!!」
そう…第3回になっても報酬はしょっぱいままである…
「早く…終わってくれ…俺の…時間が…」
なぜなら!!!
もうおわかりだろう!!!
誰も…走るのを止めないのである!!!
「早く…!!諦めてくれーー!!走るのをーー!!誰かーー!!」
そう!!!誰も!!!プライドを捨てたがらないのである!!!
「おかしい…これは…何かがおかしいぞ……」
「え…」
「シャニマスの運営は非常に優秀で、本来はPの不満を受けて1ヶ月以内には何らかの改善策を打っている」
「え!?そんなに早く!?」
「うむ」
「不満ツイートをして1週間以内には」
「もう、高山Pはエゴサでキャッチしていると言われる」(言われてません)
「そしてその不満批判から3週間以内には(諸説)対応できるよう開発陣は寝ずに(諸説)作業をしているのである!(諸説)」
「なのに…いまだにウキウキで高山Pが開催発表してるのは…」
「これは…絶対におかしい…」
「何かがあったに、違いない…」
「一体何が…」
そう、もうおわかりだろう…
誰も!!走るのをやめないのである!!!
この偉そうに運営事情を語っていた摩美々担当でさえも、
走るのをやめないのである!!!
「みんな一生懸命Trueに挑んでるのにーー!!!」
恐ろしい集団心理!!
もうお分かりでしょう。
他の誰でもない、今、これを読んでいる…
あなたが!!走るのをやめましょう!!
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誰も望んでない戦争でおなじみPカップ、3回目も順調にヘイトが溜まっているようですが、結局大きな改善もないのって走る人がいるからでは???という真理にたどり着いたので今回は走っていません。1ミリも。
どこかのクラゲみたいに出し抜こうとしてません。ホント。
とまぁ長い前置きは置いておいて、Pカップが1番クソって言われてる理由っていくつかありまして。
1.報酬がしょっぱい
散々上で言ったけども。フルマラソン走らせるのに10km地点から水すら置いてないって苦行以外の何
2.相対的に他のイベントが良すぎた
要はPカップってデレステやミリシタでやってるイベント形式と一緒なので、これ単体で見るとまぁ燃える人はいるのかもしれないが、普段やってるイベントは競わない形式であり、かつアイドルやコミュが報酬でついているという豪華仕様なのである。
競わなくても楽しめる世界に戦争持ち込んだらそら叛逆の声も出ますわ
3.時間の拘束がでかい
ミリシタにはオートパス、デレステには擬似的なオート編成によって人権が守られているが(そうか?)シャニマスは音ゲーではないためそんなものはない。
さらに、1回のライブで何pt、のように1回のプロデュースで何人のファンと決まった値が出るわけではない。
つまり、時間効率とは別に技術的な効率化が必要になるためランキングに実力がそのまま反映される。時間をかけてもだめなときはダメ。修羅か?
「じゃあどうすればいいのさ」という運営の声に対しては「やめたら」と返す他ない。
売り上げやアクティブが増えているんです〜と赤裸々に語ってくれたら仕方がないが、Pカップを喜んでいる層を観測できていないのでかなり怪しい。
ただ、周年ごとに大きなイベントやりたいという意思はなるほどと思うので、今は一刻も早くコラボフェスが生まれてくれることを願う。
それはそれとしてプライドと時間はよく測って走りましょう。いや走られるとPカップ続くから困るけど。
「ユア・ストーリー」に まじに なっちゃって どうするの(ネタばれあり)
※いくつかの記事、監督のインタビューを見て追記してます
公開前からかなり楽しみにしていた「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」をようやく観ることができた。
あのドラゴンクエスト、しかもV(がモデルと思われる)の映画化ということで、『主人公の壮絶な人生を2時間弱でどうやって収めるのか』が今回注目していたポイントだった。
結論から言うと、ドラクエVをプレイしたことがある人ならわりと納得のいくまとめ方だったように思う。
パパスとの旅から始まる子供時代の物語はSFC版の映像を用いたダイジェストでまとめており、フローラとの出会い、ビアンカとゲレゲレとの触れ合い、そしてパパスとの別れといった、青年時代にも影響してくる重要な部分はきちんと描写されていた。
(あくまでゲームの一場面を切り取っただけなので、ゲームをプレイしていない人が全て飲み込めたか定かではないが)
そして奴隷時代から本編は始まる。
脱出の流れ、ヘンリー王子との別れなど、ところどころ臨場感を優先して原作とは違う部分は見受けられたが違和感は感じず、むしろV以外の音楽が流れたときはちょっとワクワクした。
自分はあくまでVの物語を軸にしているだけで、映画自体はドラゴンクエストを包括した〔≒Vのナンバリングがない〕ものだと解釈して臨んだので、Vを忠実に再現することに期待した人はこのパートは興ざめしたかもしれない。
少し流れから外れた話をするが、原作から改変が入ったうちの一つとして「主人公が勇者だと言い聞かせられる」、もうひとつとして「グランバニアの王子ではない(描写がない)」という点が挙げられる。
前者は、当時のプレイの記憶なので自信がないが、原作では「勇者がどこかにいる。」とだけ遺言を残され、主人公は勇者を探す旅に出たその道中で自分は勇者ではないことがわかるという流れだった。
父の件があるとはいえ、普通の青年だった主人公が旅に出る動機としては正直微妙だな、と思っていたため、今回の改変によって旅の動機が固められたのはいい影響だな、と感じた。
後者は、単純にストーリーが間延びしないという点で評価に値する改変だと思う。
「制作陣は愛がない」という評価を見かけたが、ストーリーの改変自体は割と丁寧にしていたように感じた。(甘く見すぎかもしれないが)
父の遺言を受けて主人公は旅に出る。決意の瞬間に流れたBGMは「序曲」。まさに冒険の始まりである。
このシーンに「ドラゴンクエスト」の魅力が集約されていると感じ、素直に興奮した。
(この後のたびたび「序曲」が流れるため、少々クドいとは思ったが)
そうこうしているうちにVの一大イベント「結婚」のシーンがやってくる。
まずフローラがとてもかわいかった。私はビアンカ派だが、フローラの仕草や頬を赤らめる表情には少し心がぐらついた。
このシーンでも、原作のように目の前でどちらかを選択するのではなく、ブオーンを討伐したことでフローラと結婚が決まった主人公に、通りすがりの占い師が「本心を見せる薬」を飲ませ、ビアンカに対しての思いに気づかせるという流れに変わっていた。
結果としてビアンカが選ばれ、それも実は占い師に変身したフローラによる計らいだったというオチになっており、かなりマイルドな仕上がりになっていたと思う。(フローラ派は残念だったかもしれないが)
その後は大方原作通りに話は進み、遂にゲマ達との決戦。
大量の敵に苦戦し万事休すの主人公パーティの元に、奴隷時代を共にしたヘンリー王子率いる大部隊、そして道中で服従させたブオーンによる助太刀が入り、仲間の絆、そして家族の思いを背負いながらゲマとの戦いが始まる。
一進一退の熱いバトル。手に汗握る攻防。まさにクライマックスへと物語は進んでいく。
最後には主人公と息子が力を合わせ、親子の力でゲマを撃退。
しかしゲマの最後の悪あがきでミルドラースの封印が解かれようとする。
それを阻止するため、ブオーンの力も借りることで息子、すなわち勇者が闇が渦巻く雲の切れ間に天空の剣を投げ込むと、闇が収縮し始める。
歓声を上げる息子。笑顔のビアンカ。無事ミルドラースを封印し、世界に平和が訪れる。感動のフィナーレの時である。
と思われた次の瞬間、世界が止まる。主人公を除いて。
雲の切れ間からよくわからない「ウイルス」を名乗るものが飛来。世界のオブジェクトを消し始める。
実はこの世界は「フィクション」であり、主人公はVRでゲームの世界を体験していたにすぎなかったのだ。
子供時代がダイジェストだったのも、物語が少しずつ違っていたのもすべて事前に設定していたものだったのだ。
実は私は「ユア・ストーリー」というサブタイトルに引っかかりを感じ、事前にオチを予想してこの映画に臨んだ。(後からなら何とでもいえるが)
しかし、私が予想していたのは「お母さんがコンセントを抜いたことで突然画面が消え、現実世界に戻る」というものだった。まぁメタフィクションとしてはありふれてそうな展開ではある。オチとしては弱いが。
が、まさかそれが本当に起きるとは思わなかった。
まさかゲームのビジュアルガン無視のポッと出の奴にコンセントを抜かれるとは思わなかった。
まさにその瞬間感じたのは「お母さんにコンセント抜かれたときの理不尽なやり場のない感情」だった。
まさかここまで子供のころの追体験ができるとは思いませんでした。素晴らしい。作った人の脳が見てみたい。
その後、「この物語は嘘じゃない!」という主人公セリフや、突然いい声でしゃべるスライム(を名乗る世界の観測者?)に託されたワクチンソード(なぜかロトの剣)よってウイルスを撃退。
世界は修復し、無事物語もフィナーレを迎えるのであった。
見終わった感想として、まずドラクエパートは本当によくできていた。
2時間弱で主人公の壮絶な人生を駆け足とはいえよくまとめたと思うし、スライムやキラーマシンといったモンスターたちの質感や躍動感には感動した。
そして佐藤健さん達の演技も文句なしだった。
山田孝之さんのパパスはかっこよかったし、有村架純さんのビアンカ、波瑠さんのフローラはキャラのイメージに合っていたように感じたし、吉田鋼太郎さんのゲマは憎々しく感じるくらい良かった。
特にサンチョは、ケンドーコバヤシさんだと最初気が付かないくらいはまり役だったように思う。
今回の映画で賛否を読んだ原因、というか一番の失敗はフィクションにもメタフィクションにも振り切ることができず微妙な立ち位置だった脚本構成だと思う。
おそらく、ドラクエ映画制作決定の報を受けてファンの大半が望んだのは「ドラクエVを忠実に、かつ高クオリティのヴィジュアル、演出で再現した映画」だと思う。
ワタシもその一人である。
しかしそうすると、ファンこそ満足し絶賛するだろうが、未プレイ層を視聴層として映画館へ足を運ばせるには弱いというのも分かる。(ドラクエのファン層の広さを考えるとその層だけでも取り込めば成功な気はするが)
また、ただ原作をなぞるだけなら別に劇場じゃなくてもいい。ゲームをプレイすることでしっかりと完結させることができる。
おそらく(あくまで予測でしかないが)劇場化をする意味があったといわせる新しい要素、展開を考えた結果「メタフィクション」へと走ったのではないかと考えられる。
それ自体は問題ないのだが(ワタシはメタフィクションが好きなのでバイアスがかかっているだけかもしれないが)、それにしては展開が急というか雑だったと感じる。
1時間以上かけてフィクションを展開し、フィナーレまでたどり着いた上で「これはフィクションなんですよ」といきなり現実に引っ張られても正直虚無感以外何も感じないし、視聴者としても当然不満である。
しかも、ドラクエと全く関係のない存在だったのが不満を加速させた。
これがまだミルドラースそのものだったら、少なくともワタシは、今よりは満足していたと思う。
ミルドラースの力で現実に戻されるが、バーチャルの世界へ帰り無事討伐。
リアルを巻き込んだ「フィクション」として昇華できるからだ。
お母さんでもまだいい。
現実の存在によって現実に引き戻されるというのは、映画外、つまり私たちの世界でもままあることであり、それは潜在的に存在する「現実 >バーチャル」という支配関係に起因しているので理解はできるからだ。不満の声は今とそう変わらないかもしれないが。
よりによって、作られた存在によって作られた世界を否定され現実に戻させられるというのは一番たちが悪い。
やってることは『たけしの挑戦状』の「こんな げーむに まじに なっちゃって どうするの」とおんなじである。
しかしあっちはゲーム自体が理不尽であるため、世界観を象徴する一言として、ある意味最高のオチになっている。(あくまでクソゲーとしてだが)
自分の人生に、世界に真摯に向き合ってきた主人公に、そして主人公に思いを重ねながら真摯に観ていた観客にこの仕打ちはないだろう。
批判が出て当然だし、擁護する気はさらさらない。
やりたいこと自体はわかる。「キャラがフィクションだろうと、俺が冒険してきた物語は本物だ!」という流れがやりたかったのだと思う。『ユア・ストーリー』の題名からもなんとなくそれは伝わる。
もしそれをするなら、冒頭の段階で主人公がVRを装着する場面などを挿入して「今から見せるドラゴンクエストはあくまでフィクションですよ」と観客に前置きをすればよかったのではないか、と個人的に思う。
そのうえで、あの丁寧なドラクエパートの物語を展開し、ウイルスの戦いに持ち込むことで、主人公の「物語は嘘じゃない」というセリフがかなり効いてくると思う。
あまり映画同士で比較するのは良くないかもしれないが、これをうまくやったのが「仮面ライダー 平成ジェネレーションズFOREVER」である。
「仮面ライダーという存在は我々にとってはフィクションかもしれないけど、確かに心の中に存在していて、困ったときには助けになる」というのを1時間40分かけてしっかり描写している。ライダーファンからも非常に評判が良い。
(ちなみに、この映画にも佐藤健が出ている。)
「フィクション」にしてファンの思い出をフィードバックするか、「メタフィクション」にしてドラゴンクエストをかけがえのない存在に昇華するか、どちらかに振りきっていれば今回のような酷評はなかったのではないかと考える。
最後に、くり返しになるが、ドラゴンクエストのパートは非常によくできている。モンスターと主人公たちの大乱闘シーンは特に大迫力で手間がかかっており、糞映画として封印しておくにはもったいない。
余裕がある人はできれば一度劇場で、それが無理でもそのうち出るであろうDVDやBDで、是非一度はその目で見てもらいたい。
二度見る必要は特にないです。コンセント抜かれるのが好きな人はどうぞ。私は見ません。
追記------------------------------------
批評記事や監督のインタビューを見ました。
まずはこちら
http://claim-mnrt.hatenablog.com/entry/2019/08/03/133953
これを読んで大変なことに気が付きました。
ワタシがユア・ストーリーのドラクエパートを楽しめたのは「Vをプレイ済み」だったからに他ならなかったのです。
この記事を読んでいただければわかりますが、かなりの要素がカットされています。
ワタシはそれを「2時間の尺によく収めた」と褒めましたが、それは全部脳内の記憶で補完されていたからで、完全初見で見ると何が何だかわからないつくりになっていることに気づかされました。
よって、一度は見るべきとは言いましたが、「プレイした人は」という前置きを置くことにします。
そしてもうひとつ、上記の記事の中で
『(糞つまらなかったという形で)仕方ないよねと受け入れている。私たちは子供から大人になったのです。「仕方ない」は諦めではなく赦しなのです。』
といった記述があります。
これを読んでワタシは「ああ、ワタシはドラクエ映画に対して『子供のころに戻れる』ことを期待してたのだな」と深く納得しました。
子供のころに遊んだドラクエV。ドラクエVをモデルにした映画を見ることであのころの思い出に心を馳せたかったんです。だから失望した。多分同じような人がいっぱいいるのではないかと思います。
次に監督のインタビューを2件
https://mantan-web.jp/article/20190801dog00m200054000c.html
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019080201129&g=soc
まず1つ目の記事から引用。
3DCGで劇場版アニメ化する話を聞いたとき、はじめは「ゲームと映画は相性が良くない」と即答で断ったという。「ゲームは体感時間が長くてインタラクティブだけど、映画は一方通行だし尺が限られている。ゲームの映画化でうまくいった試しがないでしょう、と言いました」と打ち明ける。
続いて2つ目の記事より引用。
以前から映像化のオファーを受けていたものの、固辞していた。「映画として戦えることが見つからなければ、作る意味がない。単に物語をなぞったり、ゲームの副読本になったりするだけなら、映画にする必要はないと思っていた」
最後にまた1つ目の記事より引用。
だが、劇場版アニメの成否をも左右するような、ラストシーンのあるアイデアを「思いついてしまった」と山崎総監督。そこで初めて「映画にする意味」も見えたといい、「同時に、キャラクターの開発を始めました。」
この3つの文章に今回の映画がどのようなものであるかが集約されていると思います。
監督最初に無理って言っちゃっているんですよね。その判断は正しいと思っていて、実際尺の問題や物語の構成に工夫を凝らした努力は観ていてもひしひしと感じました。
最後の演出も含めて、あくまで監督には悪意はなく、むしろ真摯に取り組んだ結果だったというわけです。
メガホンをとった以上責任はありますし、だから監督は悪くない、などという気はありませんが、スクエニか日テレかどこかわかりませんが映画化を持ち掛けたことがそもそも間違いだったんだな、ということが監督の文章から伝わります。
根本を否定して身もふたもない意見ですが。
最後にこの記事。
https://www.cinema2d.net/entry/2019/08/04/232353
この記事はおおむね私が思っていたことがきれいに言語化されており、ワタシの記事より読みやすいと思うのでここに置いておきます。よくわからなかった人は是非どうぞ。
本田未央がシンデレラガールになって嬉しいの話
未央のシンデレラガール。
いつからかはわからないが、アイマスを楽しむ中で自分が目標にしていたことの一つである。
だからと言って精力的に活動を行ってきたわけではないし、今回も課金票を大量に投じるなどの行為はしなかったが、担当Pとして応援はしていた。
第8回シンデレラガール総選挙。遂に未央が栄冠を手にすることができた。
嬉しい。
本当にうれしい。
ミツボシ☆☆★を口ずさむくらいにはうれしい。
未央の好きなフライドチキンを雨の中買いに行くくらいにはうれしい。
ミツボシとタイピングしたら予測変換で星がついてきた(☆☆★←コレ)ことにはしゃぐくらいにはうれしい。
実は去年も未央を応援しており、月末ガシャもそれなりに回して投票券を投じた。
それなりに頑張ったつもりだったが(1ユーザーが頑張ったと考えるのはおこがましいが)CGには届かなかったので結構ショックだった。
だから今回はうれしい。
去年の分の思いも実ったから。
デレアニによる未央アンチを見かけるたび「やはり未央は多くの人に嫌われているのだろうか」と少し寂しくなることもあった。
アンチの戯言自体は「うるせーーーーーーバーーーーーカ、15歳の女の子が突然大舞台に立たされたらそりゃ勘違いの一つでもするだろボケ」くらいの気概でいたのだが、もやもやし続けていた。
だから今回はうれしい。
多くの人が未央を応援していて、未央を好きでいて、300万という膨大な票を投じてくれたから。
シンデレラガールという称号は「最も多くの好きを集めた」という証である。
アンチが何と言おうと、未央はたくさんの人に愛されている。
この証が、その事実をゆるぎないものにしてくれる。それがうれしい。
もちろん、そんな私情を抜きにしても、エンドコンテンツとなりつつあるデレマスの一つのゴールである「シンデレラガール」の栄冠を手にできたのだからうれしくないわけがない。未央は幸せ者だ。
嬉しい。ちょくちょくうれしさがこみ上げる。
しかし、1位になったからそれで終わりではない。
ここからが幸せであり、地獄でもある。
まず、モバマスで「シンデレラガール 本田未央」のカードが実装される。
カードイラスト、エピソード、シンデレラガール劇場、何もかもが特別仕様(半サザエさん時空のシンデレラガールで貴重な成長・振り返りの話が見れる)であることから最高であることはぴにゃでもわかる。
どんな風に来るのだろうか、それを想像するだけでも楽しいし、実装を今から非常に楽しみにしている。
これが天国。
次に地獄。
モバマスでは12月ごろのアニバーサリーイベントとして「アニバアイプロ」というのがある。
そのイベントの上位報酬は、その年のシンデレラガールになる。
つまり今回は未央である。
しかし、アニバアイプロは金と時間がほかの比じゃないくらいかかる。
具体的に言うと、1枚もらえる2000位ボーダーに入るには終日張り付いて10万程度の出費を覚悟しないと安泰とは言えない。
ここに合わせて有給とる社会人Pもそこそこいる。
非常にしんどいイベントなのである。
ただ、イラストやエピソードはやはり最高なのは確かであるから、12月ごろはひぃひぃ走っている、かもしれない。
ほかにも、CDやスパークルスターといった楽しみは控えているが、とりあえず今はシンデレラガール未央を待つウキウキの生活が始まる。うれしい。
あーーーーーーーよかった。
未央が愛されていてよかった。
不憫とか言われた時期もあっただけに報われてよかった。
来年は和久井さん全ぶっぱで初圏内が目標です。
終わり
「アルストロメリア」をエミリーに歌わせるには
エミリーが歌えるようになるべく文字数、リズム重視
歌詞をすべて書くと著作権の云々があるので該当部分だけ
「花ざかりタレイア」→「花ざかり神様」
(タレイアは女神であり「開花」「繁栄」「花ざかり」が語源なので「花ざかり花ざかり」と頭痛が痛いもびっくりのワードになったりする。)
「アダージョみたい」→「ゆるやかみたい」
「天と地がディストーション」→「天と地がねじれてる」
「アイデンティティー見つけた」→「自己同一性みつけた」
(もっと砕くなら「自分が何者か見つけた」)
「Silent Love」→「静かな愛」
(邦楽でよく耳にするワードだが正直意味は分からない)
「一途なわたし フィロソフィ」→「一途なわたし 哲学的」
「ニヒリズムも ペシミズムも 退屈がテンプレ」
(ニヒリズム:人間何をしようと意味がない
ペシミズム:この世は悪で満ちている)
「初めから エンドロール」→「初めからおしまい」
(エンドロール自体は映画の後に流れる、制作陣の名前一覧)
※「ねじれたバルブ」→「ねじれた茎」
公式で茎のルビにバルブが使われている。
「ジャッジメントがくだらない」→「神の審判がくだらない」
「まわる まわる Cipher」→「まわる まわる ゼロへ」
「サチュレーションあげてよ」→「飽和上限あげてよ」
「バイオリズム 果てまで」→「身体周期果てまで」
(上二つは医学用語のため翻訳しづらい)
「Yes No」→「はい いいえ」
(ゴロが悪すぎるがほかに訳しようがない)
「重なる仕草 シンパシー」→「重なる仕草 共鳴」
宗教、哲学、医学要素を取り入れているせいで日本語訳すると中二病感が
シャニマス1stは1年間プレイしたプロデューサーへのご褒美だった
アイドルマスターシャイニーカラーズの1stライブ1日目をLvにて拝見しました。
シャイニーカラーズ(以下シャニマス)はリリース時からプレイしており、柔らかいビジュアルのアイドル、素敵なイラスト、繊細なシナリオなど様々な面で楽しんでいました。
また、私にとっては初めての「始まりからずっと追っているコンテンツ」だったので思い入れも深く、今回の1stライブは言うなれば「娘たちの晴れ舞台」。
遠足前日の小学生のようにワクワクしていました。
そして当日。
ボロッボロに泣きました。
隣の人が引くのもお構いなしで涙を流しました。
アイマスのライブは何回かLVで参戦しましたが、ここまで泣いたのは今回が初めてでした。
演出がずるい。
泣きすぎて丁寧に挙げるとキリがないのだが、
・OPのBGMが「4ユニットの楽曲をアレンジして1つにつないだメドレー」
1年かけてようやく「シャイニーカラーズ」が揃ったんだなぁと感涙。
・「私たち~!!シャイニーカラーズです!!」
待ってました。今日ここから伝説が始まるんだ。号泣。
・「虹になれ」で「Catch the shinytail」を思い出し感涙。センターが真乃でよかった。
・バベルシティ・グレイス、幻想silhouetteでアンティーカの強さをぶつけられ感涙。
・朗読劇(朝)で夢にまでみたユニット間の交流。そうやって呼ぶんだ!この絡み好き!ここの繋がり拾ってくれた!と幸せの涙。
・「夢咲きAfterschool」で果穂会心の「No.1 !!!!」
ずっと楽しみにしていたので嬉し涙。
・「太陽キッス」で楽しすぎて涙。人って楽しくても泣くんですね。
元気を与える最強ユニット。
・「アルストロメリア」で頑張る甜花。見守る甘奈、千雪。ユニットらしさ120%、曲も大好きで幸せすぎて泣いた。ダンスかわいい。
と、4つのユニットすべてに感動させられた。
そして、最も胸に来たのが「朗読劇(ライブ前)」
ライブ前、それぞれ気持ちを高めながら励ましあい、我々「プロデューサー」に感謝を述べてライブへ向かう、といった話である。
何が素晴らしいって、アイマスのライブって基本的に我々は「ファン」なんですよ。
もちろん、担当アイドルの声優さんが歌唱していれば、そこに担当アイドルを重ねることもできるし、声優側からも曲中に「プロデューサーへの感謝の言葉」を述べることは多々ある。
しかし、全体としては結局我々が見るのはライブをしているアイドル、つまりファン目線から見たアイドルであり、アイドルの裏側の姿は基本的にライブ中に描写されない。
ところが、今回の朗読劇はアイドルが我々を「プロデューサー」として感謝を述べてくれたんです。
しかも、セリフはゲーム内から拾っていたり、ゲーム内の成長がすでに反映されていたりと、長くプレイしていた人ほど感慨深くなる仕上がりになっていました。
「ゲームをプレイしていてよかった。リリースからプロデュースしてきてよかった。」
そう思わせてくれる、P泣かせの演出でした。
さらに、コミカライズ化や新シナリオの発表、アンコールにて新曲「Ambitious Eve」を初披露など、怒涛のラッシュ。
これにより
ユニット曲で過去の1年間を振り返る
↓
朗読劇で1年間の感謝を述べられる
↓
新情報、新曲で「シャイニーカラーズの未来」を見る
という、プロデューサーにとってご褒美のような、極上のライブを体験しました。
演出家にお金払いたい。天才。
極めつけはキャスト挨拶。
一人ひとりがライブに対して並々ならぬ思いを抱いてパフォーマンスしてくださっていることが分かり、このコンテンツを享受できる私はなんて幸せだろうかと泣きました。
特に、果穂役の河野ひよりさんはボロボロ泣きながらも頑張って笑って挨拶していて、怖さを覚えるくらい果穂がそこにいました。いたんです!信じてください。
とまぁ泣きに泣きまくって最高のライブを楽しみました。
終了後、TLやシャニマスでサーチしたTwitterの人々が口々に「シャニマスやっててよかった!!」とさけんでいたのが今回のライブの成功を物語っていると思います。
一方で「シャニマスやっとけばよかった...」と嘆いている人もちらほらいました。
確かに、今回のライブは「プロデューサーへのライブ」の色が強く、1年間プレイした人としなかった人では大きな差があったかもしれず、その気持ちはわかります。
しかし、そこで優しいのがシャニマス。
無料10連が20日近く開催決定したので、カードを集めるチャンスです。
コミカライズや新曲も発表されたので、それらは私たちと楽しめます。
さらに、2日目では新ユニットも発表。彼女らに対しては、今から始める人も「我々が4ユニットに感じた感動」と同じものを享受することができます。
シャニマスはまだ、1年前にまいた種がようやく花になり実をつけ始めたころです。
大きな木を眺めて「花が咲く瞬間が見れなかった」で立ち止まらず、是非この機会に木の実を掴み、私たちと一緒に新しいシャニマスの花の成長を見守ってほしいです。
あーーーーーーーーーーーーいいライブだったーーーーーーーーー!!!!!!!